昭和45年11月08日 特別奉修委員
先程合楽食堂の中村さんがお届けをされるのに、今朝方報道報いる道というお声を頂いて、目覚ましのおかげを頂いた。報いる道と私は信心にで一番大事な事はここの所だとこう思いますね報いると言う事。天地の大恩に報いる生活それがそのまま金光様の御信心というてもよいでしょう。そこで報いる道と言う事はどう言う事かというと、ただ是がその為に報いると言う事が、見当違いの報いるであってはなりませんですからね。
ですからねその事を通して、今御祈念中に報道報いる道と言う事に、それに答えると言う事を頂くんですね、それに答えるとね。それがほんとの報道と言う事。だから神様に報いると言う事は、結局神様の心が解らなければ、それに報いる事は出来ない。それに答える事。それに答える生き方こそが、報いる事になるわけなんですね。しかもそれはその今言われておる一心の真をささげての報いると言う事であり。
それに答えると言う事と同時にね、しかもそれにはなら一心の真をささげての。報いると言う事にならなければならない。佐田さんが今御祈念前にお届けされますように、幹三郎さんの事をお願いさせて貰いよったら、納骨堂を頂いた。次に五重塔を頂かれたと、こういうお届けがあったんですよね。ですから一つ人間の運命というの、運命的なものから言えば、ほんとに納骨堂におさまらなければならないほどしの事であろうとこう思う。所がそこが信心ですよね。
あの五重塔という五重と言う事は、これはあのごじゅうにいるといいますよね。あのあれの事なんです、ね。浄土真宗浄土不動、浄土宗にありますね。何ち間かいわゆる極楽行きの稽古と、こう言う事なんです、ね。なら五重、五重の塔というのには、もうあらゆる信心のすべてと言う事がいえるです。ね、信心のすべて。がもう一番高度な一番すばらしい所謂経典とか経文なんかが、あの収められとると言う事で御座いますがね、あの五重塔には。私共がね例えば一つの 願いをさしてもらうと言う事。
例えば大変な願いをさせて頂いて、そのそこから大変な信心を頂かせて頂くと言う事。例えば今度の幹三郎の事で、皆さんが一生懸命沢山な人達のお祈り添えを頂いているわけですけど。先ほど石井喜代司さん達が夫婦で。最近は喜代司さんが毎朝ああして参って来ます。まあそれはいわゆる幹三郎君の事の、あの自分の事でも参る人じゃないですからねこの人。けど幹三郎君のためにああして参って。
今日なんかは夫婦で参って来とります。恐らくまあ私の事というか。合楽の事に対して感じておるからこそ、それに普通で自分の事でもお願いなんかにゃまいらんばってん、その事のためなら参ろうというのが、矢張り報いておる という印をあのようにして現していくんじゃなかろうかと思いました。夫婦が今日ここに出てまいりましたから、あたしの実感として言いたかったけど言わなかったんですけど、ああ幹三郎さんのおかげであんた信心が出来よるねと言いたかったんですよ実際は。
だからあたしはねあのその幹三郎がたとえ犠牲になっても、ほんとにそれが出来れば、もうあたしはほんとに結構であるがなんですよ、ね。その事よりも例えば皆さんがその事によって、一段と一心の真をささげて、願うと言う事の信心がどの様なものかと言う事を、体験させて頂かれるなら、それのほうが有り難いと私は思うのです。けどまあ言うならばそのまあ報いると言う事でも、ね。ただ例えば勤めてですか、ね。勤めてあん時にあげんお世話になっとったから。
こうせにゃならんと言った様な事はね、形にあらわされて例えばおったとしてもですたいね。私し例えば喜代司さんたち夫婦に、ほんとにまぁ折角そうして報いておられるのに対して、ほんとにお祈り添え有り難う御座いますというのが当たり前。だから当たり前の事を言うた訳ですけれども、実際はそうではなくてね、ほんとに幹三郎のおかげで信心が出来てよかのち、これはまあ言いたいのが実感なんでした。
そこで私しはその報道という事についてもですね、例えば佐田さんが頂いておられる。もうそれこそ刻々のお知らせに対して、そう言う所から一心に真を捧げて、報道の信心が出来ると致しますならです、ね、今まで体験した事のなかったおかげ。それがあたしゃ五重塔だと思うですね。所をあたしゃ頂いていく事が、それに答えると言う事ではなかろうかとこう思います。
それに答えるあたしゃ今日は大慈大悲と言う事を頂いて、確か仏教の言葉だけれどと言うて、済んでしもうてから思い付いたんですけど、あの巡礼移りのあれがありますねあのお芝居が。あん所にあのご詠歌のあとに言うのがほんに、大慈大悲の観音様かなんかて言いましょうははぁと思うてね。例えば私しの所の控えにあります観音様、あの像を頂いとりますが、ははぁ大慈大悲の観音様この事だったなと。
例えば幹三郎が今野口さんがお届けをされますように。昨日お見舞いに行ったらもうまるきり そのこっちのほうがお見舞いされとるごたる感じもう元気一杯で。とこう言う様な事聞かせて頂くんですけれども、それがもう大慈大悲の観音様に縋り切っておる、任せ切ってる。言うなら信じ切ってると言う事なん、ね。な神様がそこにあの人達が解る筈ないが、しんじ解る筈ないけども、そこになら親先生というか、お父さんに信じ切ってると。という事をですね、私しは思うですね。
ですからほんとにそれほどしのおかげを頂いておる訳で御座いますけれども、これにそういう願いに対して、報いてやれる親にならなければならんなと、改めて思わせて頂くので御座いますけどね。どうぞ一つ中村さんが、昨日でしたかお届けお届けされる。もうほんとにお商売させて頂いて、まっ色々な人に接してから、腹ん立ったりいろんな事があってはするけども、はぁここで修行させてもらわにゃ。
これが幹三郎さんの、その病気全快に繋がる事だと思うたら、もうそれが苦にならんで有り難いちて言う事を、言うておられましたが、そういう生き方こそがです、日ごろおかげを頂いておる事に対する、報道の道を歩いておられるのじゃなかろうかとこう思います、ね。しかもそれに答えると言う事は、んならかいか所に手が届く様な信心の事であろう。神様が願ってござるのはどこなのか。神様の願いにそれに答える事こそが、報道の信心だと言う事になるわけなんですよね、
どうぞ。